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牛之塔
この牛之塔と呼ばれ守られてきた宝篋印塔の建立時期については、明らかではありません。一般的に宝篋印塔は、下から順に返花座基礎・塔身・笠・相輸の五つの部分でできていますが、基礎に飾りがなく簡素であること、笠部が六段で隅飾(馬耳状突起)がほぼ垂直に近いこと、規模が大きく安定感があることなどから、鎌倉初期の元久頃(1204〜1206)と考えらます。石材は赤城山で産出する安山岩(通称:赤城石)です。
塔身と相輪は江戸時代のものですが、総高は305cmあります。この塔の脇を南北に走り、太田・大間々線に交差する道は「尾島道」とも呼ばれ、古くから利用されており、江戸時代初期の絵地図にも道および塔が描かれています。
この塔を建立した由来は2説あります。
- 智明が京都から阿弥陀如来像を崇禅寺(桐生市川内町)へ運ぶ途中に牛車の牛が死んだので牛の供養のために塔を建てた
- 啓禅が石の塔を鎌倉から運ぶ途中に牛が死んだので、その石の塔をそこに建てた
どちらの説も真相を伝えているかわかりませんが、物を運ぶ途中に牛車の牛が死んだので、供養のために塔をたてたということは共通しており、「牛之塔」と呼び伝えられてきました。
なお、昭和39(1964)年に発掘調査が実施され、出土した銅器の中から、竹筒に墨書した宝篋印陀羅尼経が発見されました。この竹経は、墨書から享保20年(1735)のものと推定されます。この年、災害により破損した牛之塔を修復した時に入れ直されたものと考えられます。
指定区分 | 市指定重要文化財[建造物(石造物)] |
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指定年月日 | 昭和47年4月1日 合併に伴い、平成17年3月28日に改めて新市の文化財として指定されました |
所在地 | 藪塚町1989-2 |
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