本文
まんが太田の歴史・農民運動家 須永 好
「まんが太田の歴史」(発行/太田市) 185ページより
「まんが太田の歴史」(発行/太田市) 187ページより
須永好は、明治27年(1894)、成塚村(現成塚町)の絽機屋の二男として生まれました。好が向学心に燃えたころ、家産が傾いたため、旧制太田中学校(現太田高校)を2年で退学し、農業に励みました。兵役が終了した大正6年(1916)ころは、強戸村では小作農が80%、小作地も約65%であり、小作農の生活は苦しかったようです。特に、第一次世界大戦の戦後不況、加えて大正10年の異常気象による凶作のため、その困窮度はさらに深まっていました。
そこで、大正10年10月、好は小作農民の苦境を打開するため、小作人組合を結成し、組合長に就きました。小作争議の発端です。以後毎年のように小作争議は繰り返されますが、同12年から14年にかけて、小作人組合を改称した農民組合が農会の多数を占め、村の議員も3分の2を組合側が占め、さらに村長も組合側が取るなど、農民組合側が村政のかじ取りをした「無産強戸村」として、その名が全国に知れ渡りました。
また、好は昭和12年(1937)に社会大衆党から出馬して当選し、戦後同21年の衆議院選に社会党から出馬して当選するなど、農業問題を中心に活躍しました。
好は、昭和21年9月10日、衆議院での「農地制度改革案」にかかわる代表質問中に議場に倒れ、翌日53歳の若さで没しました。