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飛行機王中島知久平

「まんが太田の歴史」(発行/太田市) 192ページより

「まんが太田の歴史」(発行/太田市) 192ページ

「まんが太田の歴史」(発行/太田市) 197ページより

「まんが太田の歴史」(発行/太田市) 197ページ

 知久平は、尾島町押切の農家の長男として明治17年(1884)に生まれ、18歳の時に軍人を志して上京し、海軍機関学校を卒業、海軍の軍人となり、大正6年(1917)3月に退官した時は機関大尉でした。海軍時代の知久平は、軍人としての職責を全うする傍ら、アメリカ・フランスで航空機産業の視察・研究を重ね、折からの大戦で大艦巨砲主義を排し、飛行機の重要性を説くようになり、「飛行機を大空に飛ばす」という自身の夢を現実化することになりました。

 知久平は、大正6年5月、海軍を待命のまま尾島町前小屋の養蚕農家の借家に「飛行機研究所」の看板を掲げ、退役が決定した同年12月に、太田町の大光院東の洋館に研究所を移転し、本格的に飛行機の研究・製造を開始しました。当初は、なかなか飛ぶ飛行機の製造は叶わず、大変苦労しましたが、大正8年2月、四型6号機を完成させました。飛ぶ飛行機の完成です。以後、陸・海軍からの大量受注により、中島飛行機は飛躍・発展を遂げ、その生産量・技術とも日本の航空機生産業界の頂点に立ち、太田は「飛行機の町」として広く知られるようになりました。

 また、知久平は昭和5年(1930)以降衆議院議員として連続5回当選し、昭和6年に犬養内閣の商工政務次官に、同12年には近衛内閣の鉄道大臣に、同20年に東久邇内閣の軍需大臣(後の商工大臣)を歴任するなど、中央政界において、その実力をいかんなく発揮しました。

 昭和24年(1949)10月、東久邇内閣での同僚である松村謙三と談笑中、病を得て倒れ、65歳の生涯を閉じました。

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