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馬場曲輪
■調査期間 平成11年7月30日~平成11年12月24日/平成12年1月28日~平成12年3月31日
■調査場所 太田市金山町40-49/40-99(三ノ丸下堀切西方)
馬場曲輪は三ノ丸下堀切と物見台下堀切とで区画された全長約120m、幅6m~25mの東西に細長い曲輪です。この南側の一段下に幅約2~5mの馬場下通路が平行し、馬場下通路東寄りにはその下に東西約60m、南北最大約13mの馬場下曲輪があります。
今回の調査では馬場曲輪の東寄り約60mの区間(A区:東端の平坦部/B区:その隣接する西側の一段高い平場/C区:その西側の通路部分)を対象にしました。
馬場曲輪東端部分A区・B区全景
(現地説明会及び調査整備委員会の開催に合わせ、確認された建物などの
配置を視覚化するため材木に着色し、柱穴の位置と建物の輪郭を表示しました
右の白木部分は柵列・C区から撮影)
整備後 馬場通路から馬場曲輪東端を望む(西から)
A区 東端の平坦部
馬場曲輪東端の三ノ丸下堀切に面する部分には、この曲輪の中で最も低く、幅が広くなっている東西約20m、南北約25mの平坦部があります。調査の結果、ここからは建物の柱穴やカマドなどが発見され、居住空間であったことが確認されました。
この平坦部は、調査の結果、北側の岩盤部分と南側の造成部分とに分かれていることがわかりました。また、南側と西側の縁には柵列と推定される柱穴が続いていました。
南側の造成部分は3期の造成面が確認され、最下層から、礎石建物1棟(3間 x 3間の大きさで、西半分が石敷き土間・東半分が板張りと推定される)、カマド3基・石組排水路・焼けた壁土が発見されました。
礎石建物(赤い木枠の範囲内・東から)
カマド(礎石建物の北側にありました)
石組排水路(礎石建物北側)
火を受けている建物の壁土
(小舞の跡がくっきり残っています・礎石建物北側)
一方、北側では岩盤を穿った建物の柱穴が多数発見されました。柱穴の重複関係や配置を検討した結果、約120年間に建物が少なくても5~6回建て替えられていたことがわかりました。建物は南北1間×東西2~3間のものが多く、3間 x 3間のものが1棟確認されました。
馬場曲輪東端平坦部北側
(柱穴が着色されているのは柱穴の間隔の分析から
同一の建物を構成する柱穴を識別するためのもの
です・西側上段から)
同上(東から)

整備後 馬場曲輪の四阿(南から)
※発掘調査で確認された最終時期の3棟の建物跡のうち、
中央建物の柱穴位置を利用して四阿(あずまや)を建てたもので、
復元ではありません。また、厩(うまや)でもありません。
A区の平坦部の南側では、上下2段の石垣、南西側でこの曲輪へ入るための石階段が確認されました。
馬場曲輪南斜面石垣(右側)と階段(左側)
整備後 馬場曲輪南斜面石垣(南西から)
※石垣は戦国時代に積まれていた高さまで積まず、
調査で確認された石垣を残しました。
階段近景(南から)
整備後
※調査で確認された石階段のステップを
そのまま残しました。
B区 一段高い平場
馬場曲輪東端平坦部の西側には、一段高くなっている東西11m×南北約7mの平場があります。この平場からは、西半部に建物の礎石、北側縁部で、斜面に石積みされた通路が見つかりました。
B区の平場(南東から)
B区平場北側の通路
(トレンチが入っている部分・西から)
C区 通路部分
この部分からは、物見台から延びていたものと同様の石築地(いしついじ)状の遺構が確認されました。この「石築地」は馬場曲輪の北側縁部分に沿って、断続的に築かれていたものと見られます。
「石築地」の上には築地塀または低い土塁が築かれていたと想定されており、北の長手口を意識した防御のためのものと考えられます。
曲輪の北側の縁に沿って築かれた
幅1.2mの石築地
一部は岩盤にすりつき、幅広になっている(西から)
なお、この「石築地」は平成12年度に面的な調査が実施され、石築地の上に築かれていたと想定されていた塀を構成する土壁や漆喰などの痕跡が発見されなかったため、「石塁」と判断を改めています。
平成12年度発掘調査報告の(1)馬場通路・石塁も参照ください。

