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太田のシンボル金山
太田市の中央に独立してそびえる金山(かなやま)は標高239mと、さほど高い山ではありませんが、朝な夕な太田市のどこからでも望むことができる、太田市のシンボル、太田市を代表する景観になっている山です。
市内各所から見た金山
東麓から
南東から
西から
南から
利根川上空から金山を望む
市街地東方上空から金山・八王子丘陵を望む
(後方雪雲がかかっているのは赤城山)
金山は全山赤松に覆われ、秀麗な山容を見せており、万葉集東歌に「新田山(にひたやま)」と歌われたように、古来よりこの地域の人々に親しまれ、心の拠り所となってきました。
東から見た金山
金龍寺東方の八王子山山麓に広がる赤松林
この金山には戦国時代に城が築かれていました。城というと、まず松本城や姫路城など天守閣のある城を連想する方も多いかもしれませんが、金山城はこの様な江戸時代の城と違い、それより少し前の、日々戦いに明け暮れた時代の城でした。
戦国時代の城は戦乱の世を反映し、常に生か死かを意識した実戦的な城でした。城の建物は「砦」という言葉がイメージするような質素なもので、土塁(どるい)や堀切(ほりきり)などで厳重に守られ、いざとなったら侍だけでなく、領民を取り込み篭城戦に持ちこたえられるよう万全の準備がなされていました。
金山城は、廃城後400年以上経過し、当時の建物こそ残っていませんが、戦国時代の城の中心的な防御施設である土塁や堀切の遺構が明瞭に残っており、金山山頂から四方に広がる尾根を造成し、曲輪(くるわ)とし、城が築かれていることがわかります。このようなことから、金山城はその歴史的価値の高さと遺構の残りの良さが評価され、昭和9年(1934)に金山山頂を中心とする尾根部分18.3haが国の史跡に指定されました。
しかし、遺構の分布は山上だけでなく、山麓を含め、ほぼ金山全山300ha近くに及んでおり、金山各所に土塁・堀切・石垣・曲輪の跡などが残っています。金山を散策すると山のあちこちでこれらの遺構を見ることができました。このため、遺跡の保護保存及び整備活用の観点から、平成14年(2002)に、これらの遺構のうち、特に重要な北城(坂中)・八王子山の砦・大手の士(さむらい)屋敷を含む79.5haが追加指定され、現在、97.8haが国の史跡に指定されています。
金山城の特徴としてまずあげられるのが、石垣・石敷きを多用しているということです。従来、関東地方においては、戦国時代の城に石垣はないとされてきました。しかし、以前から地元の研究者により、詳細な現地調査に基づき、金山城は石垣の城であるという見解が示されていました。事実、実城(みじょう)・新田神社裏手の石垣が様々な城郭関係の図書にも紹介されてもおりましたが、城郭史の定説をくつがえすには至っていませんでした。
広く知られていた実城・新田神社裏手の石垣
本城(実城域)南端の石垣
太田市と太田市教育委員会ではこの金山城跡を歴史学習の場・憩いの場として整備・活用するため、平成4年度(1992)から発掘調査を進めてまいりました。調査の過程で、金山城が当初想像した以上に、石垣・石敷きが多用された城であったことがわかってきました。この結果をもとに、史跡の環境整備事業を実施し、土塁や石垣などが修復・復元され、金山城の往時の姿が徐々に現れてきました。
平成10年(1998)11月には第1期整備事業で整備された施設の一部オープンにあわせ、大手虎口・日ノ池周辺を舞台に「金山城平成復活祭」が実施されました。その後調査・整備は順調に進み、平成12年度で、第1期整備事業が完了したのを記念し、平成13年(2001)10月に同じ会場で「金山城新世紀復活祭」が実施されました。
金山城平成復活祭・火縄銃演武
金山城平成復活祭・弓道演武

