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市の沿革

11 住み続けられるまちづくりを
ページID:0002374 更新日:2022年12月6日更新 印刷ページ表示

明治22年以降の市町村合併の経緯

 本市は、江戸時代には日光例幣使街道の宿場町として、また文政10年(1827年)に、太田町組合50ヶ村 (近郷含、73ヵ村)の寄場村(新郷)として、さらには地方小商業の在郷町として発達するなど、地域経済的にも行政的にも近郷近在の中心地として発展してきました。

 明治時代に入り、宿場制度が廃止されると、近郷の農民が買い物や大光院の縁日開山忌のために訪れる、 人口2,500人程度の小さな在郷町となりました。こうした中で、明治11年には新田郡役所が設置、同22年には町制が施行、同30年には太田中学校(現太田高校)が開校、同42年に東武鉄道が開通するなどして着実 な発展を遂げてきました。

 大正時代に入り、日本初の民間飛行機産業である中島飛行機製作所が開設されてからは、その後の航空 機産業の発達や昭和6年におこった満州事変、同12年の日中戦争、同16年の第二次世界大戦と続く軍需産業の発展とともに飛躍的な発展を遂げ、日本の航空機産業の一翼を担う工業都市への発展してきました。

 戦後は、この航空機産業で培った技術を活かし、繊維産業や自動車産業などの平和産業を中核として再出発をはかり、昭和30年代の高度経済成長を背景に、北関東を代表する工業都市として成長を遂げました。

 また、行政面では昭和23年5月に、県下5番目の市制を施行するとともに、同32年に強戸村、休泊村と、 同35年に矢場川村と、同38年には宝泉村、毛里田村とそれぞれ合併しました。さらに、現在では平成17年3月28日に尾島町・新田町・藪塚本町と合併し、合計市域は175.54平方キロメートルとなっています。

 この間、昭和35年の首都圏市街地開発区域の指定に基づいた同38年からの整備計画により、土地区画整理事業や幹線道路網の整備などによる都市基盤の整備、工業団地の造成や工業用水道の敷設などによる産業基盤の整備などによる生活環境の整備が進みました。また、昭和46年の新都市計画法に基づいた市街化区域、 市街化調整区域の指定や同48年の新用途地域の指定により、計画的な市街地の整備が進みました。

 昭和40年代~50年代にかけては、市民会館、運動公園、社会教育総合センター、老人センターなどの教育 文化施設や福祉施設の充実も進みました。さらに、平成に入ると東毛学習文化センター(現在は市へ移管し、学習文化センターへ改称)、ぐんまこどもの国 など東毛地域の中核都市にふさわしい県立の大規模な施設の整備も進みました。

 このような状況のもとで本市は、東毛地区の中核都市として、さらには両毛地域の拠点都市として発展を続けています。