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『太田かるた』絵札・読み札一覧な行

な行
絵 札
読み札
解  説
津軽藩初代藩主津軽為信は、関ケ原の戦いで東軍(徳川家康)の軍勢を率い、美濃国(岐阜県)の大垣城を攻め、その功により家康から上野国(群馬県)大舘村など八か村の内に二〇〇〇石を加増され、津軽藩の飛地ができました。この八か村を統括する代官所が大舘村に置かれ、二代藩主信枚の子で三代藩主となる信義が同村で誕生していることなどの史実をもとに、昭和六十一年八月の「尾島まつり」に弘前ねぷたの応援出陣があり、祭りも成功のうちに終わりました。これを契機として旧尾島町と弘前市の交流が始まり、今でも、祭りのみならず産業や文化などで友好関係が続いています。
新田荘は、平安時代末期の十二世紀中頃に成立した新田氏の荘園です。源義国の子新田義重は、太田市南西部の早川・石田川流域を再開発して一九郷を支配下におきました。義重はさらに三七郷を開発し、現在の太田市西部とみどり市の一部(旧新田郡)を荘園化しています。平成十二年に指定されたこの史跡の特徴は、寺社境内・館跡・湧水池など、市内の一一の遺跡を面的にとらえ、ひとつの史跡としたところにあります。
高山彦九郎は、延享四年(一七四七)五月八日、新田郡細谷村(細谷町)に農民の子として生まれ、幕末の尊王討幕運動の先駆者として志士に大きな影響を与えました。林子平・蒲生君平と共に寛政の三奇人(奇人とは傑出した人物)といわれます。彦九郎は反幕思想を持ち、尊王を高唱して遊説を重ねましたが、幕府の追及を受け、寛政五年(一七九三)筑後国久留米(福岡県)で自刃しました。明治十一年(一八七八)には高山神社が造営され、生家跡は国指定の史跡となり、遺髪塚は蓮沼家の西側墓地にあります。平成八年、史跡隣接地に高山彦九郎記念館が開館しています。
利根川の流れによって育まれた水はけの良い田畑と優れた耕土を有する尾島地区では、やまといもの生産が盛んです。特に尾島地区南部の畑一帯は、夏になると特産のやまといもの葉が繁り、まるで緑のじゅうたんを敷きつめられたようになります。これだけのやまといもの産地は全国的にも類をみず、作付面積は全国第一位です。美容、健康に大変良い尾島のやまといもは全国にその名が知られています。
平成十七年三月二十八日の太田市・尾島町・新田町・藪塚本町の合併により、農畜産品販売額が群馬県第二位となりました。作付面積全国第一位のやまといもをはじめ、紅小玉すいか、イチゴ、トマトなど特産物が数多くあります。工業は、自動車産業の輸送用機械を中心として、大規模工業団地の造成による優良企業の誘致などにより、群馬県で第一位、北関東屈指の工業製品出荷額を誇っています。商業でも年間商品販売額が県下第三位で、バランスのとれた産業形態となっています。

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