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『太田かるた』絵札・読み札一覧た行

た行
絵 札
読み札
解  説
妙満山大慶寺は新田氏の祖義重の娘妙満尼の開基と伝えられます。父母と平治の乱(一一五九)で敗死した夫、源義平 の菩提を弔うために出家し、この綿打郷に庵を建てたのが起源とされています。鶏足寺(栃木県足利市)から空覚上人を迎え大慶寺として中興されたのは、明徳五年(<応永元年>一三九四)のことでした。庭園にはたくさんのぼたんが植えられ「ぼたん寺」として親しまれています。
世良田山長楽寺は承久三年(一二二一)後鳥羽上皇の勅願により、新田義重の子義季が栄朝禅師を迎えて創建しました。栄朝は臨済禅師栄西の弟子で、創建当時の長楽寺は禅宗を主とする顕・密・禅の三宗兼学の寺でした。鎌倉時代には大いに栄えましたが、戦国期には荒廃し、のちに徳川家康が天海僧正に命じて復興させ、徳川氏の祖である義季以下累代の菩提寺としました。復興は寛永二十年(一六四三)で、天海僧正によって天台宗に改められました。寺域には家光によって日光東照宮の旧社殿が移築され、長楽寺は世良田東照宮の別当寺として繁栄し、元禄十三年(一七〇〇)には末寺一〇一か寺を有する大寺院となりました。
太田市東部、龍舞地区で行われた土地改良事業の際、偶然水田の下から発見された七基の古墳のうち第四号古墳は、墳丘全長二二・五㍍の帆立貝形古墳です。築造時期は六世紀中頃と推定され、被葬者は在地首長層と考えられています。古墳からは円筒埴輪や形象埴輪が出土し、その優れた造形と出土位置がほぼ明確なことから、埴輪祭式の様子を解明する上での高い評価を得て、昭和六十年に一括して国の重要文化財に指定されました。現在、古墳公園として復元整備され、公開されています。
出初式は、万治二年(一六五九)正月四日、江戸の上野東照宮社前で初めて行ったといわれています。太田では、安政年間(一八五四~六〇)に、江戸の火消組にならって町民有志が消防組をつくったといわれます。明治二十年代には各町村に近代的な消防組がつくられていきました。現在、出初式は一月初旬、新しい年の幕開けに合わせ、広く市民に消防職・団員の旺盛な士気と消防力を示し、市民に安全の重要性を体感する機会を提供し、併せて防火思想の普及をはかることを目的に開催されています。
三代将軍家光が天海僧正に命じて、徳川氏の祖徳川義季が開いた長楽寺境内徳川氏累代の墓地の傍らを神域として、日光東照宮旧奥社の拝殿等を移築創建した神社です。正遷宮は寛永二十一年(一六四四)で、神領二百石が寄進されました。以後も幕府の保護を受け、社殿等の修築・修復が行われています。明治八年(一八七五)の神仏分離令により別当寺長楽寺より独立し、昭和三十一年には本殿・拝殿・唐門等が国の重要文化財指定を受けています。同三十九年から三年間にわたり社殿の修復が行われ、狩野探幽が彩色に携わっていたことを示す墨書が発見されています。現在は、国指定史跡「新田荘遺跡」の一つともなっています。

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