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まんが太田の歴史・熱血政治家 武藤金吉
「まんが太田の歴史」(発行/太田市) 182ページより
「まんが太田の歴史」(発行/太田市) 183ページより
金吉は、龍舞村(現龍舞町)の農家の長男として、慶應2年(1866)に生まれました。英吉利法律学校(現中央大学)を卒業した金吉は、若くして自由党に加盟し、自由民権を唱え、明治19年に青森の『東奥日報』の主幹となり、同32年に東京で『実業新聞』を創刊して社長に就き、言論界で活躍しました。
一方、明治30年に足尾鉱毒問題に取り組んでいた代議士・田中正造と出会い、同34年に議員を辞して天皇に足尾鉱毒問題を直訴した田中の行動を知った金吉は、鉱毒問題に取り組む代議士になろうと決意し、同37年に衆議院議員に立候補して当選し、鉱毒問題の解決等に尽力しました。初当選以来、8期連続して当選し、在任期間は27年間に及びました。この間、明治44年には原敬に同行して中国に渡り、蚕糸業の調査を行い、製糸業の振興にも尽力しました。
昭和2年(1927)、田中義一内閣の内務政務次官を務め、在任中の翌年4月、病を得て62歳で死去いたしました。