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まんが太田の歴史・新田氏と新田氏累代の墓

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ページID:0004180 更新日:2022年12月6日更新 印刷ページ表示

「まんが太田の歴史」(発行/太田市) 62ページより
「まんが太田の歴史」(発行/太田市) 62ページ

 源義国の長男義重は、天仁元年(1108)の浅間山の大噴火によって荒廃した新田郡内の「空閑の地」を開発した開発領主で、開発地を京都にいた貴族の花山院藤原忠雅家に寄進し、新田荘を開きました。義重は、保元2年(1157)3月8日、藤原忠雅から下司職(荘園管理者)に任命されて、新田氏を名乗りました。

 その後、新田氏は本宗家を中心に、世良田・岩松・高林・額戸などの庶子家を輩出し、惣領的発展をとげています。

 新田氏4代政義は、寛元2年(1244)、京都大番役勤仕中に御室の仁和寺へ無断出家し、所領を没収されて由良郷別所に移居し、円福寺を創建したと伝えます。その円福寺には新田氏累代の墓(県指定史跡)などの指定文化財があります。

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