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まんが太田の歴史・新田義貞の活躍

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ページID:0004179 更新日:2022年12月6日更新 印刷ページ表示

「まんが太田の歴史」(発行/太田市) 68ページより「まんが太田の歴史」(発行/太田市) 68ページ

「まんが太田の歴史」(発行/太田市) 71ページより「まんが太田の歴史」(発行/太田市) 71ページ

 新田義貞は新田氏8代で、正安3年(1301)に生まれたといい、弟は脇屋義助です。
元弘3年(1333)3月、後醍醐天皇の綸旨(蔵人が天皇の命を受けて発給した文書)を受けた義貞は、幕府が派遣した楠木正成追討軍を密かに抜け出て帰国しました。

 義貞は、幕府徴税使を斬って討幕の決意を固め、5月8日、生品明神(新田町市野井)の社前に討幕の兵を挙げ、鎌倉攻めを開始しました。義貞軍は、小手指原(埼玉県所沢市)・久米川(東京都東村山市)・分倍河原(東京都府中市)での戦いを経て、同月18日、兵を巨福呂坂・化粧坂・極楽寺坂の三手に分けて鎌倉市中攻撃を始めましたが、幕府の守りも固く、攻防一進一退を繰り返す中、同月22日、稲村ヶ崎を突破して市中へ攻め入り、討幕の偉業を成し遂げました。

 討幕の報が後醍醐天皇のもとに伝えられると、6月5日、天皇は京都二条の富小路御所に還御され、建武政権を始められましたが、北条時行による中先代の乱を経て足利尊氏が反旗を翻すと、義貞は天皇方の大将として尊氏と確執抗争を繰り返す中、天皇方勢力の再結集を図るため北陸に赴いていた延元3年(1338)閏7月2日、足利方斯波軍の流れ矢に当たり、越前藤島荘燈明寺畷(福井県福井市)で38歳の生涯を閉じました。

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