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金山城略年表

4 質の高い教育をみんなに11 住み続けられるまちづくりを
ページID:0004142 更新日:2022年12月6日更新 印刷ページ表示

(『太田市歴史年表』1998太田市)から構成)

西暦 年号 月日 出来事
1469年 応仁3年 2月25日 金山城築城の地鎮祭が執り行われる。築城代官は、世良田長楽寺住僧松陰軒西堂がつとめた。
文明1年 8月 岩松家純、関東管領上杉方の五十子陣(埼玉県本庄市)を退き金山城に入る。
  この頃、岩松京兆家・礼部家の統一なる。
1477年 文明9年 1月18日 岩松家純、明純、尚純を伴い、五十子陣を退き金山城に入る。
1494年 明応3年 4月22日 岩松家純没する(86歳)。尚純が跡を継ぐ。
1495年 明応4年 4月13日 横瀬成繁、草津へ湯治に出かける。
4月17日 岩松尚純方の佐野小太郎、金山城を攻撃する。
12月18日 古河公方足利成氏の仲介により、岩松尚純隠居、横瀬成繁父子を尚純子息夜叉王丸(昌純)の名代とする和約が成立する。
1501年 文亀1年 8月8日 横瀬成繁没する(73歳)。金龍寺に「義山宗那忠居士」銘の五輪塔が造立される。
1509年 永正6年 8月17日 連歌師宗長、新田荘に岩松尚純を訪れ、連歌を催す。
8月29日 静喜(尚純)・宗長の「何色百韻」が著される。
1511年 永正8年 10月15日 岩松尚純没する(51歳)。
1528年 享禄1年   この頃、横瀬泰繁・横瀬成繁、その主君岩松昌純を殺し実権を握る(享禄の乱)。
1536年 天文5年 正月 横瀬成繁、「家中法度」「百姓仕置法度」を定めたと伝える。
1546年 天文15年 12月2日 足利義藤(義輝)、将軍に就く。
1565年 永禄8年 1月7日 横瀬成繁、北条軍20騎の攻撃を防ぐ。
1月 長楽寺僧義哲の「永禄日記」成る~9)。
3月5日 横瀬成繁、将軍足利義輝から刑部大輔に任官され、御供衆に加えられる。
7月15日 この頃、横瀬成繁、由良に改姓する。
1569年 永禄12年 6月9日 上杉謙信と北条氏康和睦する(越相同盟成立)。
7月15日 この頃、由良成繁の子長尾顕長、足利・館林城の城主となる。
1570年 元亀1年 2月18日 北条・上杉の和睦条件が整い、この日以降、誓詞・条書が交換される。
  この頃、由良成繁の臣荒山小左衛門、長尾顕長の臣大谷新左衛門(休泊)、新田山田・邑楽の用水普請を行い、水方普請奉行を置くという。
1571年 元亀2年 10月3日 北条氏康没する(57歳)。
  この暮、北条氏政、上杉謙信と絶交し、武田信玄と和睦する。(越相同盟の破綻)
1573年 元亀4年 3月12日 由良国繁、桐生氏の内紛に乗じ、桐生城を攻略する。
天正1年 6月11日 由良成繁、上杉方による伊勢崎(赤石)城焼き討ちにより、藤生紀伊守・金谷因播守に桐生在城を命じ、備えを厳重にさせる。
1574年 天正2年 3月26日 上杉謙信、金山城攻めのため、藤阿久に陣を張る。
4月27日 由良成繁、藤生紀伊守に壁柱・小竹などの建築材を調達するよう命じる。
9月21日 由良成繁、この頃金山城で上杉軍と戦う。
11月24日 上杉謙信、今月7日利根川を越え鉢形城下(埼玉県寄居町)を放火したのち、再び渡河して、新田・館林・足利領を放火し、金山城に迫り、明日小山張陣を那須資胤に伝え、参陣を要請する。
  この頃、天正2年銘瓦(金山実城出土)。
1576年 天正4年 2月23日 織田信長、安土城を築き、この日移る。
3月13日 上杉謙信没する(49歳)。
3月24日 上杉景勝、春日山城に入り、謙信の家督を相続する。
6月30日 由良成繁、桐生城に移り、太田金龍寺・岩松青蓮寺を移し、この日没する(73歳)。由良国繁が跡を継ぐ。
1580年 天正8年 9月20日 武田勝頼、新田・小泉・館林を攻撃し、さらに膳城を攻め、城主河田備前守らを討ち取る。
1582年 天正10年 6月2日 明智光秀、本能寺で、織田信長(49歳)を囲み自殺させる(本能寺の変)。
1584年 天正12年 2月19日 これ以前、由良国繁・長尾顕長兄弟、北条氏に従わないことを理由に糾明され、この日由良国繁は城破却並びに女房共在府を北条氏政から申しつけられる(長尾顕長の糾明は北条氏規に委ねられる)。兄弟の母妙印尼をはじめ、一族家臣寵城する。
8月13日 北条氏直、大胡高繁に金山城亀山の番を命じる。
1585年 天正13年 1月4日 北条氏照書状によれば、前年春までに、金山・館林両城は開城し、北条氏に降伏したと考えられる。
5月26日 北条氏に降伏し、由良国繁桐生に退去する。
11月9日 宇津木氏久、北条氏から金山北曲輪在城を命じられる。
  大井豊前守、北条氏から金山根曲輪在城を命じられる。
  高山遠江守、北条氏から金山西城在城を命じられる。
1587年 天正15年 8月6日 北条氏、清水正次を金山城主に命じ、513貫561文の地を宛行う。
9月2日 北条氏、清水太郎左衛門正次を派遣するため、10月中に城普請を終了させるよう宇津木氏久に命じる。
12月3日 豊臣秀吉、「関東・奥羽惣無事令」を宣言する。
1589年 天正17年 6月1日 北条氏直、桜井武兵衛の私領長手郷新宿の諸役を免じる。また、郷内の富士参詣者に対する「押買狼籍」を停止する禁制を出す。
12月6日 北条氏、宇津木氏久に小田原から金山城跡までの伝馬手形を与える。
  この頃、由良氏、北条氏につくも、成繁未亡人妙印尼は孫由良貞繁らを豊臣方の前田利家に派兵する。
1590年 天正18年 1月6日 北条氏直、深沢城主阿久沢能登守らに正月15日までに小田原へ参陣するよう支持する。この籠城に由良国繁・長尾顕長兄弟も加わる。
5月2日 豊臣秀吉の家臣前田利家ら金山城を接収する。
6月7日 前田利家、由良国繁・長尾顕長兄弟の母妙印尼に対し、由良・長尾の身上を豊臣秀吉に取り成すことを約束する。
7月5日 北条氏直、小田原城を出て、豊臣秀吉に降伏する。
7月11日 豊臣秀吉、北条氏照・北条氏政を自殺させる。
7月13日 豊臣秀吉、小田原城に入り、徳川家康に対し関東7か国のうちに240万石余を与える。
7月23日 徳川家康、岩松守純に返書を送る。
8月1日 由良氏、豊臣秀吉から常陸国牛久に知行5435石を与えられる(金山城廃城)。