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川向・中西田遺跡

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ページID:0020435 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

川向・中西田遺跡(かむかい・なかにしだいせき)平成26年調査時の空撮

平成26年度調査地全景

 

遺跡名称 川向・中西田遺跡(かむかい・なかにしだいせき)
調査場所 太田市内ケ島町
調査期間 昭和57年度、昭和62年度、昭和63年度、平成2年度、平成9年度、平成14年度、平成26年度
調査面積 約6000平方メートル以上
調査結果

 これまでに7回の発掘調査が行われており、古墳時代から中世にかけての遺構が数多く確認されました。

 特に奈良・平安時代頃に竪穴建物跡の数が急増する傾向があり、この時代に集落として大きく発展した様子が見て取れました。

 平成2年度・平成26年度の調査では、古代の地名である「薗田」と押印された瓦が出土したほか、当時の役人のベルト飾りである「巡方(じゅんぽう)」などの希少な遺物が出土しました。

 

立地と周辺の遺跡

立地
 太田市の中央やや東寄りの台地上に位置し、東武小泉線の竜舞駅の西側に広がる遺跡です。

周辺の遺跡

 当遺跡から大泉町にかけては、間之原遺跡・大塚遺跡など、縄文時代から奈良・平安時代の集落が広がっているほか、西側の小舞木町・飯塚町の低地部には、条里制水田の存在が想定されています。

 また当遺跡の北西側には内ヶ島古墳群などの群集墳も展開しています。

発見された遺構・遺物

急激に拡大する集落

 当遺跡では、これまでに7回以上の発掘調査が行われており、古墳時代から平安時代の竪穴建物跡、中世の掘立柱建物跡・溝跡などが確認され、古代の役人のベルト飾りである「巡方(じゅんぽう)」などの希少な遺物が出土しました。

 竪穴建物跡の時期変遷をみると、奈良・平安時代に竪穴建物跡が急増していることがわかります。この理由ははっきりわかりませんが、おそらく周辺に広がる条里制水田の開発を背景に、集落が発展していったものと思われます。

川向・中西田遺跡(かむかい・なかにしだいせき)の遺構配置図

これまでの調査結果

新田郡?山田郡?

 この遺跡が広がる内ケ島町一体は、古代の行政区分である新田郡と山田郡の境界付近に位置しており、奈良・平安時代には新田郡に属していたものと考えられています。

 平成2・26年度の調査では「薗田」と押印された、奈良・平安時代の瓦が出土しました。特に平成2年度出土のものは、竪穴建物跡のカマドの素材として転用されていました。この「薗田」という名称は山田郡のうち、現在の毛里田地区周辺にあった園田郷を指すと思われます。

 出土状況から考えると、山田郡の寺院などに使用されていた瓦が廃棄されたあと、この集落の住人がカマド造りのために利用したものと思われます。新田郡・山田郡の境界付近にあった集落であることから、となりの地域のモノも入手しやすかったのかもしれません。

中西田遺跡出土の瓦

平成2年度出土の「薗田」押印瓦