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反丸遺跡
遺跡名称 | 反丸遺跡(そりまるいせき) |
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調査場所 | 太田市吉沢町 |
調査期間 | 平成29年度~令和2年度 |
調査面積 | 約32,000平方メートル |
調査結果 | 反丸遺跡では今回の調査によって、古墳時代の竪穴建物跡400軒以上、遺物収納箱で900箱を超える遺物が見つかり、 一つの大規模集落の様子が明らかになりました。また石製品製作工房と思われる建物跡が10軒以上確認され、祭祀(マ ツリ)に関わる遺物のほか、本来希少とされる遺物が多く出土している点も特徴です。 |
→ 反丸遺跡紹介リーフレット(令和2年度埋蔵文化財最新情報展資料)[PDFファイル/13.42MB]
反丸遺跡E区調査状況
立地と遺跡の特徴
反丸遺跡調査区遠景(南から)
立地
西の八王子丘陵と東の渡良瀬川に挟まれた渡良瀬川扇状地。扇状地が形成された後、旧河川の流れによりつくられた低地に東西を挟まれた「細長い微高地」で、大規模な集落がつくられました。
遺跡の特徴
- 古墳時代の大規模集落(4~6世紀)
- 水晶製勾玉、子持勾玉や銅鏡など希少な遺物が出土
- 石製品製作工房が10軒以上
- 竪穴建物跡から各種須恵器が多数出土
- 竪穴建物跡から祭祀関連遺物が多数出土
- 古墳時代の後、集落は消失
巨大な集落
発掘調査平面図平成29年度〜令和2年度分
反丸遺跡は古墳時代の大規模集落です。昭和57・58年に行われた群馬県教育委員会の発掘調査分を含めると、竪穴建物跡が450軒以上確認されました。
集落の中心はE区周辺であり、建物跡が重なるよう密集しています。同じ場所で何度も建て替えが行われています。
反丸遺跡で一般的な竪穴建物跡
竪穴建物は、穴を掘って、その底に床をつくり、柱を立てて屋根を葺(ふ)いた建物です。古墳時代の竪穴建物は、主に正方形に掘り窪めてつくられます。
通常の古墳時代の竪穴建物は一辺が4〜6mの正方形です。写真の竪穴建物跡は一辺が7mの正方形で、建物跡の床面や覆土(建物跡を埋めている土中)から遺物が出土しています。
超大型竪穴建物
反丸遺跡では一辺が11m以上の超大型建物が3軒確認されました。集落の中心的な建物と考えられます。
通常の竪穴建物は4本の柱穴を持ちますが、写真の超大型竪穴建物跡では9本の柱穴(写真の赤丸表示箇所)が確認されました。
外面に格子目の文様をもつ土師器の坏
反丸遺跡では膨大な量の遺物が出土しましたが、太田市において出土例の少ない珍しい遺物も多数出土しています。
希少な石製品
反丸遺跡では通常の発掘調査で出土することのない遺物が、数多く出土しており、石製品についても同様です。
勾玉(まがたま)・管玉(くだたま)
首飾りなどのアクセサリーとして使われ、特に水晶や瑪瑙(めのう)で作られた勾玉は、全体の中で僅かです。古墳時代のアクセサリーは全国的に、その多くが古墳から見つかり、装飾品だけでなく、併せて権威を示すものと考えられています。
鏃形(ぞくがた)石製品
つくりの丁寧さから石製模造品と区別しています。近畿地方の前期古墳に副葬されることが多い遺物です。太田市内では中溝・深町遺跡からも出土しています。
多孔石製品
ガラス小玉の鋳型によく似ていますが、詳細は不明です。鋳型は土製が多いようです。破損していますが2箇所大きく貫通する孔が空けられています。
瑪瑙(めのう)原石
石製品ではありませんが、瑪瑙と思われる原石が出土しました。
これらの遺物は、反丸遺跡では通常の出土事例とは異なり、竪穴建物跡内から出土します。特に床面より高い位置から出土する例が多く、竪穴建物が廃棄され埋まっていく途中で、何らかの「祭祀(マツリ)」が行われ、その際使用されたと思われます。
石の工房
石製品製作工房
反丸遺跡を説明する上で重要な特徴の1つは、古墳時代の「石製品製作工房」が複数軒確認されたことです。現時点において、10数軒以上存在したものと想定しており、これだけ多くの軒数が確認されたのは太田市で初めてです。
“石製品製作工房”とは言いますが、通常の竪穴建物とほぼ変わらず「住居兼工房」です。素材や製作途中の未製品、道具である台石などが出土し、工作用とされる穴などが確認されます。
製作途中の臼玉(うすだま)
建物跡の床面から多数の臼玉未製品がまとまって出土しました。
粘板岩チップ(小片)廃棄状況
石製品の製作過程で生じたチップ(小片)が、埋没途中の竪穴建物跡に廃棄された状況が確認できます。
石製模造品
滑石(かっせき)などの加工しやすい石で、剣などをまねて作った道具です。古墳に副葬されるほか、ムラのマツリに使用された祭祀の道具と考えられています。ムラの外では河川・海辺・岩場・峠付近などでも集中して出土し、そこは祭祀の場とされています。
石製模造品の種類は、主に剣などの武器類、斧などの農工具類、勾玉・臼玉などの玉類があります。
反丸遺跡では、主に「石製模造品」の【臼玉】と【有孔剥片】(写真上)を製作していたと思われます。
石製品紡錘車(ぼうすいしゃ)群
石製品製作工房と想定される建物跡の床下土坑から「石製紡錘車」がまとまって出土しました。反丸遺跡で作られた石製模造品と同じく粘板岩製で、孔の空いていないものや孔空けを失敗したものもありました。
反丸遺跡の「石製品製作工房」の特徴は、以下のとおりです。
- 6世紀の工房が多いこと
- 粘板岩(頁岩)を石材とすること(一般的には滑石を使用することが多い)
- マツリの道具とされる【石製模造品】を中心に製作
- 石製紡錘車などの生活用具も同時に製作
住居跡から出土する須恵器
須恵器(すえき)は5世紀初めに朝鮮半島から伝わり、日本でも生産が始まりました。轆轤(ろくろ)を使い、窯(かま)にて高温で焼く青灰色の器です。一般的に古墳時代の須恵器は、古墳に副葬され、祭祀遺構に置かれました。生活用品ではなくマツリの道具だったのです。
ただし金山丘陵及び八王子丘陵では6世紀初めから須恵器が生産され、6世紀後半には東日本最大規模の生産地となります。それに伴い金山丘陵周辺の集落では6世紀半ば以降、坏(つき)・高坏(たかつき)を中心とした須恵器の出土が多くなります。
反丸遺跡からも多くの須恵器が出土しました。その中には竪穴建物跡から出土することの稀な珍しい須恵器もあります。
須恵器高坏の出土状況
竪穴建物跡の壁際の覆土から須恵器の高坏が出土しました。須恵器の坏は床面からの出土が多いですが、それ以外の珍しい須恵器は覆土からの出土が目立ちます。特に写真の高坏は炭化物の直上から出土しています。
平底短頸瓶(ひらぞこたんけいへい)
これまで全国で60数例が知られており、10例が群馬県から出土していました。ほぼ古墳からの出土であり、葬送儀礼に使用されたと考えられています。
反丸遺跡では2点ともに竪穴建物跡の覆土から出土しています。
平底短頸瓶などの出土状況
竪穴建物跡の覆土の中層から多量の遺物が出土しました。写真中央には平底短頸瓶が確認できます。遺物周辺の平坦な面は建物の床ではなく、さらに約20cm下に床がありました。
珍しい須恵器に加え、坏や高坏も建物跡の床面より高い位置から出土することが多く、マツリに使われたと思われます。
多種多様な土製模造品
反丸遺跡では土製品も数多く出土しており、その多くは「土製模造品」に該当します。土製模造品は祭祀遺跡からの出土例の多いマツリの道具とされます。
反丸遺跡から出土する主な土製模造品は以下のとおりです。
- 【土製勾玉】…土製の勾玉。簡素化され「く」字状あり
- 【土玉】…土製の丸玉で、大小様々
- 【鏡形土製品】…円形の板の中央に鈕(つまみ)がつくものが多い
その他、何を模倣したのか分からない、類例の少ない土製品も存在します。
土製勾玉の出土状況
土製模造品は、竪穴建物跡における出土位置に特徴がありました。その多くがカマドの周辺またはカマドの中から出土するのです。さらにはカマドを作る際に構築材の粘土に土製勾玉や土玉を入れ込む事例もありました。
写真の土製勾玉もカマド周辺から出土しています。
鏡形土製品の出土状況
鏡形土製品の多くが、カマド内かカマド周辺から出土しています。写真の鏡形土製品もカマド内から出土しています。
鏡形土製品
3世紀後半~8世紀前半に作られ、特に5~6世紀に多いようです。竪穴建物跡や祭祀遺跡から出土します。全国的に分布しますが、分布が限られ、ほぼ出土しない地域もあります。
群馬県も出土の少ない地域です。今回の発掘調査前に確認されていた県内の出土例は、現時点で前橋市3遺跡、太田市3遺跡(県調査の反丸遺跡を含む。)、板倉町1遺跡の計7遺跡で、個体数は8点でした。
今回、反丸遺跡の発掘調査で出土した鏡形土製品は、現時点で20点以上にものぼります。
他の土製模造品と同じく、竪穴建物跡のカマド周辺やカマド内から出土する例が目立ち、カマドに関わるマツリに使用されていたものが多かったと思われます。
土鈴(どれい)
同じく竪穴建物跡から土製の鈴が出土しました。小石と思われるものが複数個内包されており、振ると小気味良い音がします。
音を聴きたい方は、下記リンク先から該当のYouTube動画を選んでご視聴ください。
祭祀(マツリ)
土師器・須恵器の坏と臼玉
反丸遺跡では、集落内での様々な「マツリ」が想定されます。
写真は竪穴建物内(廃棄時?)における床面でのマツリと考えられます。遺物では須恵器坏や土師器坏が意図的に集められ、その内外に臼玉・管玉が配置されています。
土師器カメと坏 手捏土器と土玉
上の写真と同じく竪穴建物内(廃棄時?)における床面、さらに“カマド周辺”でのマツリと考えられます。
土師器カメの周囲に坏を、手捏土器(てづくねどき)の周囲に土玉を配置しています。カマド周辺からは土製模造品(土製勾玉・土玉・鏡形土製品・手捏土器など)の出土が目立ちます。
竪穴建物覆土遺物出土状況
竪穴建物が埋まっていく途中でのマツリと考えられます。
出土位置と遺物から次のパターンが想定されます。
- 中央に1点…小型倭製鏡、勾玉
- 中央に集中…土師器、須恵器、石製品、石製模造品、土製模造品
- 壁際に1点…子持勾玉、勾玉、管玉
- 壁際に集中…石製模造品、製作工具(台石)
写真は上記のbにあたり、出土する遺物の構成は、昭和57・58年の群馬県教育委員会による発掘調査で確認された、集落内の平地における「祭祀遺構」と類似します。
小型倭製鏡の出土状況
竪穴建物が埋まっていく途中でのマツリと考えられます。
写真は上記パターンのaに該当し、小型倭製鏡1点が竪穴建物の中央、覆土の上層(床面から約46cm)から出土しました。
有孔剥片(ゆうこうはくへん)と臼玉
竪穴建物が埋まっていく途中でのマツリと考えられます。
写真は上記パターンのdに該当し、複数の有孔剥片と1点の臼玉が竪穴建物の壁際、特にカマド脇からまとまって出土しました。
有孔剥片については未製品との考えもありますが、当写真において“完成品の臼玉”と一緒に出土しているので、“有孔剥片も完成品”と判断しています。
有孔剥片は、反丸遺跡から数多く出土しています。
特に希少な遺物
子持勾玉(こもちまがたま)
大型の勾玉に、数個の小形の勾玉形の突起をつけたものです。通常、古墳や祭祀遺跡から出土し、古墳時代の祭祀用具と考えられています。全国で約400点(群馬県内では約60点)確認されています。もともと数の少ない遺物ですが、特に竪穴建物跡から出土することが非常に少ない遺物です。
反丸遺跡では、竪穴建物跡内から破片を合せて4点出土しました。東壁際の、床面より高い位置から出土する例が目立ちます。竪穴建物が埋まっていく途中で、マツリに使用されたものでしょうか。
小型倭製鏡
国内で製作された鏡で、文様の特徴から「重圏文鏡(じゅうけんもんきょう)」と思われます。
青銅製で、直径は約6cm、一部で赤色顔料を塗られていた痕跡がありました。竪穴建物跡(6世紀)の中央、床面よりかなり高い位置から出土しており、マツリにおける使用が想定されます。
重圏文鏡は全国で50数例出土しており、古墳時代前期の出土例が最多です。県内でも古墳時代銅鏡は200例以上確認されていますが、重圏文鏡は5例のみです。その内2例は、太田市内の新田東部遺跡群と成塚向山1号墳です。
また重圏文鏡は他の鏡と異なり、集落内の祭祀や威信財(権威や権力を示す財物)として使用され、役目が終わると廃棄される傾向が指摘されています。
線刻のある石
出土例がほぼ無い遺物です。何か描かれているとは思われますが、特定できません。
竪穴建物跡(6世紀後半)の床面よりやや高い位置から出土しました。
石材は、反丸遺跡の石製模造品製作で主に使用されている「粘板岩」です。出土した竪穴建物自体も工房であると想定しています。
大きい個体(写真左)は発掘調査時に把握していましたが、小さい個体(写真右)は後日、遺物整理の途中で確認されたものです。類似する2つの破片なので接合を試みましたが、現時点では接合できませんでした。
どのような目的で作られたものだったのでしょうか。
反丸遺跡
古墳時代、「渡良瀬川」は当集落の近い場所を流れていました。おそらく古墳時代の反丸遺跡は、渡良瀬川やその支流に関わる集落であったと思われます。その中でどのようなマツリが行われ、またマツリの道具とされる「石製模造品」が作られていたのでしょうか。
現在、整理作業を進めており、発掘調査報告書は令和6年に刊行予定です。
反丸遺跡から南を望む