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明王院出土の源義助板碑
呑嶺山明王院安養寺(どんれいさんみょうおういんあんようじ)は、真言宗豊山派の寺院で、新田氏の氏寺であったといわれています。「太平記」によれば、元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉を攻めるときに、この寺の不動明王が山伏に化身して、越後方面の新田一族に、挙兵を一夜にして触れてまわったという伝説から「新田触不動(にったふれふどう)」として知られています。
源義助(みなもとよしすけ)は、新田義貞の弟であり由良郷脇屋村(脇屋町)に館をかまえ、脇屋次郎義助(わきやじろうよしすけ)と称していました。義助は、義貞とともに鎌倉を攻め滅ぼし、その功で建武の新政では武者所に列して駿河守(するがのかみ)となりました。延元3年(1338)義貞の戦死後は、新田一族を率いて南朝方につくし刑部卿(ぎょうぶきょう)に任じられました。その後四国に渡り四国、九州方面の兵を統率して奮戦しましたが、康永元年(1342)伊予国府(愛媛県今治市)においてに病没しました。
この板碑(いたび)は、「康永元年壬午六月五日」に義助の菩提を弔うために、新田氏ゆかりのこの寺に建てられたものと思われます。
板碑は、高さ119cm、幅35cmで、材質は緑泥片岩(りょくでいへいがん)です。板碑の上部にキリーク(阿弥陀如来)と蓮華刻み、その下に梵字光明真言(ぼんじこうみょうしんごん)と銘文が刻まれています。
板碑は、簡略形式の塔婆として鎌倉時代に流行し、主に関東一円に顕著な広がりを見せました。その要因に、素材として使用された緑泥片岩(秩父地方の産出)があり、一般に「武蔵型板碑」と言われています。
指定区分 | 市指定重要文化財[考古資料] |
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指定年月日 | 昭和50年10月8日 合併に伴い、平成17年3月28日に改めて新市の文化財として指定されました |
所在地 | 太田市安養寺町200-1 明王院 |