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不覚にも肺炎にかかった。とにかく市長になって病気らしい病気にかかったことがない。有給休暇を取りなさいと職員には言うが自分は長く休むことなどしたことがない。だが、ついに2週間を超える入院生活を送ることになった。東京に仕事で行くことがちょくちょくあるがタクシーはよほどでなければ使わない。6,7年前のことであったか50mも歩くと「おい、休もうや」と腰掛けるようになった。歩けないのである。脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)であった。手術をして3日後には市役所にいた。あの時が長い?入院生活、お休み日であった。
不覚にも、というのは暮れの忙しさと新年の準備で動き回って体の状態をまったく顧みなかったことだ。かかりつけ医で肺炎と診断された。レントゲンを見たが肺は白模様、かなり悪化していた。パルスオキシメーターの数値が上がらない。「このまま入院しましょう」と言われても年末年始の行事もあるしそうはいかない、と心では思った。不思議なもので思いと行動は違った。体は抵抗もなく病院の方に向かっている。症状は悪く即、入院した。「清水さんのお年になられると半分近くは亡くなっていても不思議ではありません」。主治医はレントゲンを見ながら深刻な顔をしている。半分は帰れないと言う。その中に自分が入っているのか、頭の中が白くなった。それから本格的な入院生活が始まった。検査、点滴、レントゲンの繰り返しが続いた。看護師さんとの会話が楽しかった。お掃除に来るベトナム人の女性ともたくさん話した。バスケット好きな看護助手さんもいた。そして、退院の日が来た。パルスオキシメーターの酸素飽和度は97%、正常値である。
昔、製薬会社にいたときプレドニンというステロイド、抗炎症剤を病院に売り込んだ。そのプレドニンが自分の治療に使われた。複雑な思いがした。(1月17日 記)